(2011.7.2)モチーフサーキット@同志社女子大学

■ TJWKアカデミアモチーフサーキット
日時2011.7.2
場所同志社女子大学 純正館(京都市)
ゲスト新田享子さん(TJWK発起人)
「トロントからメッセージ」
河崎友紀さん(大阪市社会福祉協議会嘱託職員)
「ボランティアバスに乗って」

心斎橋の古民家レンタルスペース「afu」さんにて、たくさんの人が集まってモチーフを編むモチーフサーキットを開催しました。季節外れの夏日で、汗だくなりながら、ときにはビール片手に
アットホームななかでわいわいと作業。楽しかったです。

イベントの何日か前にこのたび会場を提供してくださったafuさんに打ち合わせをするために電話をしました。そしたら「うちね…めっちゃ暑いんですよ…」という衝撃的なご報告を受け、そうそう私が下見をさせてもらったのは5月の一番よい時期でした。テラスが最高に気持ちよくて、雨が降らなければ最高やね!とか言って、どうか当日は雨が降りませんよーに!!とばっかり願っていたのですが、どうやらその願いが届きすぎたようです。。。

当日は最高気温35度の猛暑日!なんと大阪で6月に猛暑日になったのは、観測史上初だそうです。前世が巫女といろんな人に言われたにも関わらず、現世は失敗だらけです、ハイ。

そんななか、総勢20名の方が遊びに来てくださいました☆

今回のイベントは私の生徒さんである、みさとちゃんが、ほんとにがんばってくれました。彼女が同女に勤めていること、新田さんの母校であること、私の母校(私は共学のほうだったんですけど)であることもあって、同女でやらしてもらったらどうですか?と企画を通してくれたんですね。それから当日まで山あり谷ありの連続だったのですが、結果、48名の方に参加していただきました。できたモチーフは138枚!
ここまでくるのに、ほんとに草の根運動でした。
大阪は最強ニットグループfunknitさんをはじめ、関大の先生や社会福祉協議会などたくさんの方のサポートがあって、参加人数が増えました。
でも京都は…日々ひきこもり&友達が少ないatricotはつてがまったくなく、2週間前になっても予約は10名くらい…参加人数がすべてでは全然ないのですが、圧倒的に知ってる人が少ないということです。きっと知ってたら参加してくださる方がいらっしゃるはず。
ということで、みさとちゃんとミーティングを重ね、できることを全部やろう!って奔走しました。私はメディアに働きかけ、みさとちゃんはなんと200枚以上のチラシを、同女の学生さん、近所の手芸やさん、思いつくところから狙いを定めて、かたっぱしから足を動かしてくれました。
結局、新聞2紙とラジオ(これは私が営業したのではなくすごくラッキーな出来事ですが)2社に情報を流していただき、前日の3日間ですごい追い上げを見せました。
そして予約35名さままでになったんですけど、当日はなぜか10人ほど増えました。おみやげのキットは全部なくなり、ほんとに嬉しい誤算でした。(渡せなかったさりぃさん、ごめんなさいね。)
なので今回はネットをしない方にも少しはアピールできたかな。ネットの世界だけ見るとなんだか浸透してきたかもっ!って調子乗ってしまいそうなんですが、ネットとあみものをする方って言うとものすごく限定されていることに気づきます。もっと視野を広げないと。

「こないだの関大のイベントにいけなかったんだけど、周りの子がみんな編んでたから私も参加したいなって思って」
「ラジオで聞いて、すぐにメモをとりました。パソコンができないから夫が代わりにメールをしてくれて」
「新聞を見て、これならできる!ってすぐに行くことに決めました」
「以前のイベントにも行って、すごく楽しかったので」
「昨日手芸やさんでフライヤーを見て、どんなのかすごく気になって!」

ほんとにみなさん、ご存知になられたきっかけはいろいろでした。書いていただいたリストを見てびっくり!!!愛知の一宮、奈良の大和郡山、天理、滋賀の高島市、蒲生郡、大阪の吹田、豊中、兵庫の川西市、神戸市…などなどなどなど!ほんとにいろんなところから集まってくださいました。世代もさまざまでした。おばさまと学生さん、実は住んでるところがご近所だったとか、楽しい会話をされてましたよ☆

TJWK発起人 トロント在住 新田享子の挨拶

こんにちわ。Think of Japan While Knitting の発起人の新田享子です。私も同女の卒業生です。自分のはじめたプロジェクトのイベントがこうして出身校で開かれることになり、とても嬉しく思っています。それで、いろんな人のつながりを経てここに至った、被災者支援プロジェクトのきっかけについてお話して、ご協力のお礼とさせていただきます。

私は海外生活が長いのですが、3月11日、津波発生時の北米メディアの報道をとてもよく覚えています。衝撃的な映像を選りすぐって、世紀末かのように報道され、見ているだけで悲しくなり、不安にかられました。でも11日は金曜日だったので、一歩外に出れば、みんな週末をエンジョイしています。
そのギャップにすごく戸惑いました。そして、ハイチやニュージーランドの震災のときもこんな調子で、私もひとごとのように知らん振りしていたことや、報道熱もすぐに冷めてしまったことを思い出しました。

トロントの街では、facebookなどを利用して、日本人学生たちが真っ先に募金活動をはじめていました。私もすぐに赤十字に寄付をしましたが、自分もなにかしたい!と思い、3月14日にはもう行動に移していました。

私は編みものが好きなので、モチーフを編んでもらってブランケットにしてそれを売って寄付しようと思いつきました。最終的にお金にしようと思ったのは、たくさんブランケットは編めないし、遠い日本に大きなブランケットを郵送するより、お金のほうが役に立つと思ったからです。
ニットは時間がかかるので、編んでいる間に日本は復興してしまうかも、と思いましたが、メディアにも忘れ去れてしまいがちな、「長期にわたって支援が必要な人たちもいるだろう」と思い、あしなが育英会のことを思い出しました。阪神大震災のときも震災孤児のために尽力した非営利団体です。

日本のニットというのは世界でもイチモク置かれています。
そこで、日本の編み図を英訳してそれを無料配布すれば、喜んで協力してくれる人が現れると思いました。私は翻訳者なので翻訳は自分でやりました。そしてグラフィックデザイナーの友だちが日の丸のマルが赤い毛糸になっている可愛いロゴを、すぐにつくってくれました。
facebook、ラベリ、ブログを通じてバイリンガル編み図を配布しはじめました。印刷もして、トロントにある毛糸屋さんを何軒か飛び込み営業し、そのうち2軒からとてもたくさんの毛糸の寄付をいただきました。

サンフランシスコに15年住んでいたので、一番最初に協力してくれた人は、サンフランシスコの友人知人でした。何人かの親友が宣伝して、モチーフを編んでくれて、さらにその友達が編みはじめる、という、まさに人の輪を通じて広がりました。
カナダ、アメリカ、ヨーロッパの人たちが徐々にモチーフを編んで郵送してくれるようになりました。最初に届いたモチーフはイギリスとニュージャージー州にいる見知らぬ人たちからのものでした。
トロントでは月に一度モチーフ編みナイトというのを開いていろんな人が参加してくれています。北米ではトロントとサンフランシスコにいろんなところからたくさんのモチーフが送られてきます。

そんなおり、2年ほど前からネットを通じて付き合いのあった京都の笹谷さん(atricot)が、震災に対して悶々としておられる気持ちをブログに書いていらっしゃったので、「私はこんなことしてるよ!」とメールしたんです。そうしたら、是非参加したいとすぐに連絡をくださいました。もう一人、東京の方も同じように協力したい、との連絡が来ました。

あとは、笹谷さんのご尽力で、あっというまに大きく広がり、みなさんご存知のとおりです。

モチーフ編んで、ブランケットつくって、それを売ってお金にする、と決めたのですが、お金にするまでには本当に長い時間がかかります。どうしてそこまで、大変でしょう、と人は言いますが、私は「報道熱が冷めても、被災者に支援は必要だから」と応えます。
でもそれよりも、自分で手を動かし走りまわり、どうやってブランケットを売ろうかと頭を悩ましているとき、地震で頼るべき親を亡くしてしまった子供が生きていくのにどんなに大変かということが、ずっしりと感じられます。ゆっくり編みものしながら、人の苦境に思いを馳せたり、復興や原発の今後について考えたりする時間が持てる、というのがこの企画のよいところだと、思っています。

忙しい中時間を割いて、モチーフを編んでくれる人、それをつなげてくれる人、材料を寄付してくれる人、会場を提供してくれる人がたくさんいらっしゃいます。つまり、誰かが困っているときに助けたいと思っている人がこんなにたくさんいらっしゃるということが、なによりもスバラシイことだと私は思っています。

今日は夏だというのに編み物するために集まってくださって本当にありがとうございます。

「ボランティアバスに乗って」
河崎友紀さん

河崎さんは、震災報道を見ていて、なにかできることをやりたいとの気持ちが強くなり、前職を辞めて時間があったこともあったので、ボラバスの募集を見つけたときに、即参加を決めたのでした。
40人で行き、その多くは男性で、年齢も経験もバラバラだったけれども、いろんな人が集まったおかげで、我が我がではなく、ひとりひとりがみんなのことを思いながら仕事することができたのがよかった、と。

とはいえ、仕事は過酷を極めます。
震災1ヶ月の時点で被災地に入ったために、あたりは、ヘドロだらけです。
漁港だったので、加工前の魚や、蒲鉾にするすり身のようなものがたくさん流れてきていて、臭いがすごかった、と。テレビでは伝わってこない生々しい現実が、そこはあったのでした。

河崎さんがボランティアに赴いた家は、半壊の家です。
1階は水に浸かっていて、2階が生活可能な場所。家に入ってみると、関係ない車が流れてきて、家に突っ込んでいたり、冷蔵庫が流れてきていたり…、凄惨な風景がひろがっていたそうです。
そういう場所で、水道などのライフラインもなく、かつがつ生活されている場所で、ヘドロを取り除き、家財道具をキレイにするのが、主な仕事だったのだそうです。

瓦礫は単純に瓦礫なのではなく、そこには家族の写真や位牌など、大切なものが眠っています。それらを選り分けながらの作業なので、作業は遅々として進みません。河崎さんは、ひとつの家に3日間いたのだそうですが、それでもその家の前すら片付かないほどです。
その意味でも、ボランティアの力はまだまだ必要だとのこと。ボランティアのニーズはヤマほどもあるのだそうです。

こうした仕事にひとりで向かっていると、無力感から、気持ちを苛まれることもあります。
また、作業中でも大きな余震が何度も続きます。作業しているボランティアの安全確保やメンタル的なケアも必要です。
でも、ボラバスに乗って、たくさんの人で行くことのメリットは、みんなで気持ちを共有することができます。そのおかげで、ふさぎ込むこともなかった、と。
ボラバスから戻ってからも、参加された皆さんは連絡をとりあっているようです。再度現地に赴いた人もいれば、チャリティに参加されている人もいる。河崎さんのように、社会福祉協議会で働く人もいます。そうやって、次への繋がりを、皆さんが持たれているようです。

ヘドロにまみれた写真をキレイに洗浄して、被災されたご家族に返すボランティアがあるそうです。
被災された方への支援の方法はさまざまで、僕たちのプロジェクトのように、モチーフをつくって最終的にお金に換えて支援する、というやりかたもおなじで、すべてボランティアとして繋がっていると、河崎さんは最後にエールを送ってくれました。

講演というかたちではあったけれども、ボランティアとして繋がっているんだという、おなじ目線で語ってくれたので、共闘しているかんじがして、とてもいい時間でしたね。
どんな仕事でもそうだけれども、連帯するとき、僕は、それぞれの現場で頑張っている人たちとの連帯を思い浮かべるし、そういうものを目指したいと、常、思っています。
そういうものになったように、思います。

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