(2011.6.4)モチーフサーキット@関大リサーチアトリエ

■ TJWKアカデミアモチーフサーキット
日時2011.6.4
場所関大リサーチアトリエ(天神橋筋商店街)
講演「水俣、木沢に見る繋がりの大切さ」
草郷孝好先生(関西大学社会学部社会システムデザイン専攻教授)

みんなが集まってモチーフを編むモチーフサーキットの記念すべき第1回目は、天神橋筋商店街にある関西大学社会的信頼創造センター(STEP)のリサーチアトリエにて開催されました。
100人以上の人が集まり、会場はすごい熱気に包まれ、誰もがなにか手助けできることはないかと思いが集まったのでした。商店街で募金を呼びかけている坂東英二さんも立ち寄ってくれ、賑やかな1日となりました。
また、草郷孝好先生(関西大学社会学部社会システムデザイン専攻教授)による講演「水俣、木沢に見る繋がりの大切さ」も開催され、まちが復興していくにあたって、人々のつながりの大切さを、水俣の実例を交えてお話していただきました。

「水俣、木沢に見る繋がりの大切さ」
草郷孝好先生(関西大学社会学部社会システムデザイン専攻教授)

水俣をきっかけに地元学という研究がスタートしたのですが、水俣病に見舞われた地域が、どのような取り組みを続けてきたのか、そのなかでどのような教訓を得たのか、というようなことは、先の新潟地震の復興においても適用されており、今回の東日本大震災の復興においても役立つものばかりなのだそうです。そうしたお話を、スライドを交えてお話していただきました。

これ、めちゃくちゃおもしろかったですよ!
キモになっているのは「繋がり」です。
まさに、TJWKの活動と、ピタリと重なってきます。

30分の予定でお願いしていたのだけれども、予定を大幅にオーバーして、なんと1時間以上も話していただきました! もう、ありがたすぎです☆

以下、ダイジェスト版ですが、お話をまとめてみました。

【震災が起こった直後に考えたこと】

まず、地震があったときのことを思い出してみます。
私は7階の研究室にいて、ふわーんふわーんという、揺れを感じました。
外に出てみると、みんなも外に出ていて、顔をあわせて、地震だよねと言い合っていました。
テレビがないのでネットで速報を見てみると、震源地は東北で、しかも津波が来ているということを知りました。
ちょうどそのとき、私は報告書に追われていて、死ぬほどワープロを叩いていたのだけれども、一瞬にしてそれが頭から消えて、まず家に帰ろうと思い、その場で家に帰りました。
それから長い一日が続いていくわけですが、3月11日からしばらくのあいだ、私は沈黙していました。家ではそれほど喋るほうではないけれども、ますます喋らなくなりました。
悲劇の大きさに圧倒され、原発については、若いころに原発が抱える問題に対してかかわっていたこともあって、それがじゅうぶんにできなかったという悔しさ、自責の念、怒りが混在していました。
町や村が一瞬にしてなくなる、家族や知り合いを突然失う…、戦争もそうだけれども、こんな悲劇があっていいのかということに、言い知れぬ、底知れぬ無力感に襲われていました。

僕は、祈っていました。
クリスチャンでも敬虔な宗教信者でもないけれども、ポジティブに物事が動いていくように、ひたすら祈っていました。

そして、生きていくうえでなにが必要なのかということを、深く考えていました。

衣食住が満たされる生活は重要だけれども、これはとてつもない奇跡によってつくられているのだということも、見えてきました。
通信技術が発達して、この震災は一瞬のうちに世界中にひろがり、世界の距離はそれだけ近くなったともいえるけれども、おたがいのことがわかったり、理解しあうということとはまったくべつの問題なのだということも、わかってきました。

そういうことを考えていたとき、自然と、素敵な人たちの顔が浮かんできました。
浮かんできた顔は、水俣、新潟、ブータン、ネパールの人たちの顔、私が知り合った人たちの顔です。

今回は、水俣の話を聞いてください。

【不信社会だった水俣】

水俣という言葉を聞いたことある人は多いと思います。
むかしの水俣は、キレイな海があって、海辺のまちで、まちでボートレースを行なって盛り上がるまちでした。
また、山間のまちでもあります。水俣は、海辺だけではなく、水俣川の上流から下流まででつくられているまちで、キレイな山間があります。

その後、水俣には、深刻な「人災」がありました。
水俣病は伝染病ではないけれども、移ると言われ、差別を受けました。
中毒です。
チッソという工場から海に垂れ流された水銀汚染で起きた中毒で、治療法はありません。
明治後期、戦時中、戦後と長きにわたった産業開発、豊かな生活を実現するための工場でした。国策です。

水俣病で、水俣町は大変な打撃を受けました。
でもそれは、すぐにチッソのせいだとは認定されなかった。

1950年代、水俣病が発生したころ、駅がチッソ工場のすぐ隣にできていて、まちの一番いいところに工場がありました。
工場から水銀が海に垂れ流され、水銀を食べた魚を人が食べ、そのことで水俣病が発生しました。
1956年、公式に水俣病患者が確認されました。
当時は、原因不明の奇病です。原因が認定されたのは、12年先。
でも、原因は、じつは発生当時にほぼわかっていました。

この病気は神経にダメージを受け、深刻なものだと、自分で思うように身体を動かせない状態になります。
深刻ではない状態のものは、視野が狭くなるとか、一見するとわからない状態です。

水俣病患者とチッソは、当然、対立しました。
でも、ややこしいのは、たとえば親戚内にチッソやチッソ関連の会社に勤めている人がいて、チッソがつぶれたら生活に困る人がいるわけです。
さらに、水俣市の税金の7割近くがチッソ関係からのものでした。
そんな状況のなか、水俣病患者とチッソの対立は、家族内やコミュニティ内にも持ち込まれていきます。
風評被害もありました。
海のものにかぎらず山のもの、農作物までもが、水俣産というだけでまったく売れなくなりました。

さらには、水俣出身だとは決して言えない時代もありました。
九州出身、熊本出身とは言えても、水俣出身だとは、言えない。
引っ越しもし、人口も減りました。

おたがいが信用できない、「不信社会」のまちになってしまった。それが、水俣病に見舞われたまちでした。

そんな水俣が今、じつは、環境モデル都市に選ばれています。
2008年、全国で6つしかない環境モデル都市に、水俣は選ばれています。

どうしてか?

【水俣の地元学】

水俣は、1990年代に変わりました。

水俣の地元学、というものが生まれました。
当時の市の職員の吉本哲郎さんが考えだしました。

これは、地元の学問という意味ではなくて、「地元に学ぶ」という意味です。

吉本さんのアイデアの元は、水俣病患者の杉本栄子さん、当時の市長の吉井正澄さんほか、彼のむかしからの仲間たちでした。

「人様は変えられないから、自分が変わる」(杉本栄子さん)
杉本さんは、水俣病になってもっとも虐められた人です。もちろん、なにもしてくれない行政やまちを憎んでいた。でも、杉本さんは、自分からまちとの向き合い方を変えないとなにも変わっていかないと、決意をされました。

「海ん者と山ん者がつながれば、まちはどうにかなる」
川で繋がっているまちがちゃんと繋がれば、まちは再生するんじゃないのか?

「もやいなおし」
不信社会のなか、役所はなにもしてくれず無視してきました。
でも、吉井市長が市長になって2ヶ月目に、いきなり謝罪し、慰霊式を行なった。もやい直しという言葉で、おたがいのことを理解することで、舫を直す、心と心の繋がりをつくっていこうと彼が宣言したのでした。

「行政参加」
役所が設計したものに、どうですか?と声かけて参加してもらう市民参加ではなくて、地元のみんながやることに行政がどうバックアップできるのかを考えていこう、という考えです。

【水俣市頭石の奇跡】

水俣に、頭石というまちがあります。かぐめいし、と読みます。絶対に読めません(笑)
ここは、誰も行かないまち。お葬式など、行く理由がなければ誰も行かないまちだそうです。水俣でも、名前すら知らない人も多い。若者は都会に行ってしまう。そういうまちです。

そんなまちで、住んでいる方の何人かが、なんとかしないと、と思ったのでした。
でもアイデアもなければカネもない。そこで、役所に行って、なにかやってもらうと思い、行ってみたのだそうです。正直、補助金やなんやらのおカネをアテにして、行ってみたのでした。

すると、オカネはないけれども、「元気村づくり条例」というものがあるよ、と。
村まるごとを博物館にしてみて、観光客を誘致してみてはどうか、と。
アテにしていたおカネは出てこず、不思議なものを勧められたのでした。ま、相手が悪かったですね(笑)

おもしろそうだけれども、よくわかんないし…と、不安やらなんやらが入り交じっているとき、「いやなら、いつでもやめていいから!」と言われて、やることになったのですね。
いやなら、いつでもやめていいから!って、すごいですね。僕の経験から言って、行政って、そんなこと絶対に言わない(笑)
ほら、おカネをもらっちゃうとキチンとやらないとダメだというプレッシャーがあるけれども、やめてもいいから!というひとことは、デカいですよ。事実、このひとことは大きかったようです。

この条例に基づいて、まちの人たちから、8人が生活学芸員に選ばれたのでした。
彼らが、訪れる人たちに、地域を案内します。
心得がひとつだけあって、それは、
「なんにもありません、たいしたもんはありません」は絶対に言ってはいけない
というものです。

外から訪れた人が、頭石を1時間ほど歩き、わからないことを聞き、生活学芸員の方が説明します。

頭石には、
まちの名前の由来となった石があります。
縄文時代の遺跡、お寺、湧き水、養蜂箱なんかがあります。

そうしたものを、生活学芸員が説明するわけです。
このやりとりが、じつにいいんですね。
都会から来た人は田舎の珍しいことをたくさん学べるし、学芸員の皆さんは、自分のまちのことを、外からの、違う視点で見ることができ、新たな発見に繋がります。
そうやって、人と人が繋がっていきます。
リピーターもたくさんいて、国内外から、なんと3,000人以上の人が頭石を訪問するまでになりました。
今では、高校の修学旅行先にもなっています。
場所のいいですけど、人がいいんですね、きっと。

僕的にキモだったのは、自分たちの土地のことを調べたり、外の人にお話したり、外の人とやりとりすることで、自分たちの土地の新たな発見がある、ということです。

以前、天神橋筋・中崎町界隈 古書店マップをつくられた関大社会学部院生の松岡クンにお話を聞いたとき、地図をつくることは地域イメージを再構築するきっかけになったり、新たな繋がりが生まれて地域の共同性を高める役割を果たす、ということを教えてもらいました。

この話に繋がるものがあって、生活学芸員にしても地図にしても、外からやってくる人たちのためにつくられたものが、じつは、自分たちを見つめ直す役割をも担っている、ということです。
このあたりのことは、まちづくりにかかわっている人たちにとっては、とってもスリリングな話だと思います。

さて、女性グループは、加工所を立ち上げました。
地元で採れる農産物をつかって、お弁当をつくり、売ってます。そうやって、ビジネスにしようとしています。
また、ここは村まるごと博物館ですから、博物館料というのがとれるんですね。その一部は、地域のおカネになります。
学芸会もやるんだそうです。
出しもののシナリオをつくるときに、地元の歴史を調べ、地元に残っている踊りをシナリオに組み込んだとのこと。
そうやって出しもののなかに地元の踊りを組み込むことで、子供たちに文化を伝えていくこともできます。

頭石のこうした事例は、今、国内外で関心を集めていて、農水省の「活力ある村、まち」賞に選ばれました。
この地元学は、もはや、水俣の外にもひろがっていっています。

地元の人が主役になって、地元に根を生やし、地元を大切にし、知恵を使って、工夫していくのが楽しい。
地元の仲間との繋がりを大切にする。
地元の外の人との繋がりができることで、外からの見方がわかる。
地元学には、そうした効果があるようです。

素晴らしい事例を紹介していただきました☆

【新潟中越地震に見舞われた木沢集落の例】

ここからは、震災のお話です。
震災といっても、新潟中越地震のお話です。

2004年10月23日、新潟中越地震は起きました。
震源地に近い木沢集落という山間の集落は、大きなダメージを受けました。半壊、全壊がほとんどです。
村に残るか出ていくのかが差し迫った問題であると同時に、高齢者が多く、生活の弱さを抱えた人が多い場所です。
結果的には、半数の人が離れました。

でも、地震はマイナス面ばかりではなかったようです。

震災でメチャクチャになった道を、自分たちで直していくとき、当然のことだけれども、土木作業や重機が大活躍するわけです。大活躍するおかげで、3K、出稼ぎの象徴でしかなかったこれらの仕事が、見直されたのだそうです。

さらに、60歳を過ぎた人が、「木沢のお年寄りが元気ならいいんだ」と口にする。復興に向けて皆が助け合っていくなかで、そのような周りへの気遣いができるようになったといいます。

自分たちで立ち上がっていこうと、「フレンドシップ木沢」というグループができました。これも、地震が起こらなければ、あり得なかったグループなのだそうです。
たとえば、Hさんは、村のことなどどうでもいいと考える会社人間だったけれども、震災後、集落の繋がりの大切さに気づいて、再生のために身を粉にして働くの楽しくて仕方がない、というふうになりました。生きかたが、変わった。
そういう人たちが何人もいて、「フレンドシップ木沢」ができたのだそうです。

地震をきっかけに、隣接する村同士の交流も再開されました。
かつては、木沢の集落と周りの集落が協力して、大きな盆踊りが開かれていたのだそうです。
でもそれは、いつしかそれぞれの集落で独自に盆踊りが行なわれるようになっていったのでした。
そんな盆踊りが、震災のせいで、ひとつの村で行なうことが不可能になり、そういえばむかしは合同でやってたよね!という記憶がよみがえり、20村郷合同の盆踊りが再開されたのでした。
地震があったからこそ、の出来事ですね。

地面にはヒビが入ったけれども、そのヒビによって、近所の繋がりの大切さ、その力のすごさに気づいた。
これが、木沢集落の例です。
繋がりの大切さ、という点は、水俣そっくりです。

木沢には、学生や若者のボランティアがたくさん入りました。
でも、訪問すると、木沢の人たちの生きかたから、自分たちの生きかたを考え直すきっかけをもらってくるようです。
そこに住み込んでしまう学生、何度でも足を運ぶ若者。なかには、名誉村民に選ばれたりもしています。20歳代の名誉村民(笑)
ボランティアに行ったはずなのに、逆に元気をもらってくるんですね。

僕も、阪神大震災以降、長田のオジィやオバァたちと触れ合うことで、まったくおなじような経験をしているので、この気分はとてもよくわかります。

結局のところ、木沢には、木沢を創ってきた生きる達人がいる、ということです。
バイタロジーがハンパなくて、生きる達人。

草郷先生のスライドに登場した90歳オーバーのおじいさんは、とても90歳には見えなくて、畑仕事の現役で、魚の養殖もされているとのことです。顔もよければ、笑顔も素敵です。

地震でダメージを受けたけれども、みんな助け合ったり、繋がりを生かしている町、それが木沢です。

【復興の主役は誰なのか、復興の意味は?】

支援金が大きくなれば、復旧の可能性は高まるでしょう。でも、それは、必ずしも復興や再生を意味しません。

復興の主役は誰なのか、復興の意味は?

地元の人が主役だけれども、押しつけにならずに繋がれる地元の外の存在はとても大切で、その繋がりかたは、相手を支配、強制、矯正するのではなにも生まれない、ということです。
向き合い方、というものを、草郷先生の今回のお話からは、学んだように思います。

相手の見方には必ず一理あるということを受け止めれば、おたがいに何かを触発され、なにかを生んでいく。
マイナスをプラスに変える、マイナスの状況からプラスなにかを見つけ出すことが、キモ。

地元学には吉本さんの言葉「ないものをねだらない。あるものから探す」という言葉があるのだそうです。
この言葉は深く、手元に置いておかないと忘れてしまいがちになる、大切な言葉だと、僕は思います。

最後、
水俣の海に浮かぶ夕陽と、海上を走る船からの眺めを見せていただきました。
水俣の海、今、キレイな海です。珊瑚もいるのだとか。

東日本大震災で傷ついたすべての被災地の未来も、このようなものでありますように。
ひとりひとりは小さな力だけれども、繋がりを持って、長くかかわっていきたいと思っています。

草郷先生、ありがとうございました。

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