日時 | 2011.7.12 |
場所 | 大阪市北区社会福祉協議会(大阪市) |
ゲスト | 友田智子さん(大阪市社会福祉協議会) 「気仙沼市災害ボランティアセンターにて」 |
今回は、今までのモチーフサーキットよりも年齢層がグッと高いです。たぶん、平均でオーバー60。オーバー70のオバァもいらっしゃいます。
最初に、モチーフサーキットを企画したとき、これは地域のコミュニティに持っていくのが一番効果的だろうなと考えて、かつ、会場提供だけじゃなくて、さまざまなバックアップが得られるような、協力的で理解のあるところを選びました。
なんせ、おカネも人件もないという、ナイナイ尽くしの状態だったので。
幸いにして、たくさんの団体に、こちらが想像していた以上に協力していただき、あらためて、このプロジェクトが持っているポテンシャルの高さに驚いていたのだけれども、そんななか、今回の、北区社会福祉協議会さんに協力してもらってモチーフサーキットを行なうことは、僕のなかでは、ちょっと特別な位置づけでした。もちろん、全部でたった8回の開催だし、どの会場も大切には違いないのだけれども、社福で開催する分は、ちょっとべつの位置づけを持たせていました。
それは、ここで開催するなら、きっと、オーバー60、オーバー70のオバァたちにたくさん集まってもらえる、ということ。
僕は、このモチーフサーキットの素敵なところは、年代も性別も生活テリトリーも越えて、さまざまな人が越境するようにして繋がっていく、その繋がりのカラフルさがなによりも素敵なことだと思っていて、それこそが、実際に足を運んでもらって、おしゃべりをしてもらって、みんなでモチーフを編むことの意味であり、意義だと思っています。
でも、このプロジェクトは、おカネがまったくないために、告知と集客の大部分を、ネット上で展開しています。
サイトを立ち上げ、ブログで書き続け、twitterやfacebookなどのSNSを駆使して、それこそ経費をまったくかけずに済むところで情報を流し、広めてきました。
でも、オーバー60、オーバー70のオバァたちは、その場所とはまったく違うところで生活している人たちです。
でも、きっと、その人たちこそが編みものが得意な世代だし、他人のためになにかをやることを厭わない人たちだし、口コミの素晴らしいネットワークを持っている人たちだし、この人たちを真ん中に置いておかないと、このプロジェクトは推進力を維持できないかもしれないとすら、僕は思っていました。
さらに言うなら、この人たちは、プロジェクトの目のまえのことの処理に汲々としている僕たちが間違えたりブレたりしたときの、お目付役にすらなってもらえる、と、僕は思っています。
ボランティアだ支援だと言ったところで、僕らや若い世代の人たちは、意識しようがしまいが、どっかに、自分の歓びのため、自己満足のため、という側面を抱えています。これはもう、まぎれもなく。
でも、オーバー60、オーバー70の人たちって、僕の知るかぎり、ごくごく自然体で、「無私」の人たちが多いですね。長い年月、心を磨かれて、珠のような心持ちで、「無私」の気持ちを持ってらっしゃる。
そのモラルを、僕たちはきっと必要とするときが来るだろうし、それこそをプロジェクトの真ん中に置いておいたら、呼びかけ人のatricotさんや協力してくれる若い人たちが変な方向に行くことはないだろうという思いも、僕にはあったのでした。
だからこそ、北区社会福祉協議会さんにはどうしても協力していただきたくて、僕は、わりと初期の段階でお話を持っていったのでした。
オーバー60、オーバー70のオバァたちを集めることにかけては社福の右に出る団体はいないだろうし、それ以上に、僕ら以上に当事者意識を持ってイベントをつくってくれて、それはそれは惜しみないご協力をいただきました。
また、こういうイベントの製作に慣れている人たちばっかりだから、もう、めーっちゃキメ細かくやってくれはって、それはそれは素晴らしいイベントになりましたですよ☆
友田智子さん(大阪市社会福祉協議会)
「気仙沼市災害ボランティアセンターにて」
大阪からバスで行ってこられ、仙台まで12時間、仙台から気仙沼まで3時間かけて、行ってこられたのでした。
仙台から気仙沼まで3時間かかるのだから、今回の震災がいかに広い範囲に被害を及ぼしているのかがわかります。
気仙沼の被害状況は、亡くなられた方が977人、行方不明者が473人、被災棟数10,672棟、被災世帯9500世帯、避難者2579人、避難所53施設、仮設住宅2114戸、地盤沈下76cmという、想像を絶する被害です。
さらに、暑くなってきた今時分は、津波が運んできた海のヘドロが悪臭を放ち、さらにハエが発生したりと、テレビからは伝わってこない状況を、たくさん話していただきました。
阪神大震災と大きく違うのは、被災の原因が津波であったために、おなじまちでも、ちょっと高台にあった家など津波が及ばなかったところは無傷、でも津波にさらわれたところは家が根こそぎなくなっているという、そのコントラストです。
だから、全財産をなくした人がいる隣で、まったく無傷で普通に生活をしている人がいるという…。
ただ、漁業さえ再開できたらこのまちはどうにかできる、という地元の人たちの力強いパワーがあって、漁港の整備が急ピッチで進められているそうです。
仮設住宅の建設も進み、避難所からそちらに移り住んでいる人も、順次増えていっているようです。
そんななか、友田さんたちは、バラバラにやってくるボランティア希望の人たちを受け付け、ボランティアを希望している被災世帯とのマッチングを行なってこられたのだそうです。
ボランティア希望の人たちにオリエンテーションを行い、ボランティア保険の登録を案内し、掃除や介護、通訳などボランティアしたい仕事を分野別に分け、それぞれにゼッケンをつけてもらい、どんな仕事が得意なのかが一目でわかるようにされていたのでした。
阪神大震災のときと違って、今回集まってくるボランティア希望の人は、それなりの覚悟も情報も持っていて、しっかりとした装備で来られた人が多かったそうです。
アメリカから自前の車を持ってボランティアに来られた強者もいたそうです。そうやって、いろんな人が出会い、そこでもたくさんの繋がりが生まれたのだとか。
でももちろん、いいことばかりではないですね。
たとえば、1000人の炊き出しができる設備を持って、ボランティアに来られた人たちがいました。
でも、炊き出しを求めているのは20人や30人の人がいる避難所です。そちらに行ってもらうようにお願いすると、1000人分の炊き出しをするつもりで来たのに、と言われ、上手くマッチングできないケースも多々あったそうです。
10時間以上の時間をかけて、仕事を休んで、泥かきのボランティアに来たけれども、雨で泥かきは中止。案内することができない。すると、泥かきに来たのに…、と、グチられることもあるのだとか。
友田さんはそのたびに苦悩されるのだけれども、果たして誰のためのボランティアなのか、というところに立ち返るのだそうです。
避難所では、皆さん、自分だけじゃないから、と、例外なくおっしゃる。
でも、何ヶ月もプライバシーがない窮屈な場所で、ストレスも溜まっていきます。
ちょっとしたことが、ガマンできなくなる。これは仕方がないことだけれども、ちょっとしたことがトラブルに発展する現実もあります。
避難所の体育館に、認知症の方がいらっしゃる場合もあります。
この人たちは、最終的に、体育館の外の、共用部に隔離されたように追いやられている例もあります。
でもね、ストレスがピークに達してるなかで、たとえば、体育館の床に頭を置いて寝なければならない状況で、夜中、走りまわられる…。
極限の状況では、もう、なにが正解なのか、容易に結論を出せる状況ではなくなっています。
仮設住宅の抽選に当たった人は、妬まれもします。
そういう現実があるとわかったうえで、支援を続けていくのは、キレイゴトではないだろうし、考えなければならないことはたくさんある、と、友田さんはおっしゃっておられました。
友田さんのお話は、そこに行かれたからこそ語れる具体的なナマの情報で、生々しい迫力があり、遠く離れた僕たちが、なにをするにせよ、具体的にイメージしていく一助になります。