日時 | 2011.9.17 |
場所 | 中津芸術文化村ピエロハーバー(大阪市) |
ゲスト | 「被災のお話」 東登子さん(福島県出身でピエロハーバーを拠点とする市民劇団の劇団員) |
阪急中津駅高架下にある中津芸術文化村 ピエロハーバーにて、完成したブランケット&ショール46枚のお披露目と販売を行いました。
直前に読売新聞に掲載されたこともあって、結構な人出。
来られた方、私のモチーフはどこかしら~!って探してらっしゃる方が多かったですね。
展示したブランケット&ショールに使用したモチーフは全体の本の一部でしかないので、残念ながら見つけることのできた人は少なかっただろうけれども、ミラクルな出来事もありました。
どれにしようかなとさんざん悩んだ末にお買い上げいただいた方の隣に、そのブランケットを繋いだ繋ぎ手さんがたまたまいたのですね。さらにさらに、その隣には、なんと!繋ぎ用の糸を寄付してくれた人がいて、1枚のブランケットを通じて、寄付してくれた人、繋いでくれた人、買ってくれた人の3人が繋がってしまったという、ミラクルな出来事もあったのですよ。
こんなふうに繋がっていくのって、サイコーです☆
「被災のお話」
東登子さん(福島県出身でピエロハーバーを拠点とする市民劇団の劇団員)
震災直後のことです。
テレビの中継で津波の映像を見たときには、小さなころから行っていた場所の知っている建物がことごとくなくなっていて、これはなんだ?と頭の整理がまったくつかないと同時に、ダメだと思ったそうです。
盛岡市の実家に電話しても、呼び出し音は鳴るけれども誰も電話に出ない。もしかして建物の下敷きに?など、さまざまなことが頭に浮かんだそうです。
数時間後、お父さんと連絡がとれたのだそうですが、黒電話だったことが幸いしたようです。そこで、家族全員の無事が確認できました。
でも、陸前高田市や大船渡市にいる親戚の安否がまったくわからない状態でした。それが一番辛かった、と。
若い人たち同士はtwitterやネット等で連絡をとることができるけれども、実家の両親や年配の人とは、そんなものは使えません。
メディアから流れてくる情報で、あそこの地域は無事だよと聞かされても、声を聞くまでは安心できない。
東さんの場合、幸運にも、自衛隊上がりの友人がいたので、その友人が、車も使えないなか、自転車で東さんの親戚の家を一軒一軒まわってくれたそうです。それでようやく信じることができた、と。
テレビから流れてくる情報をとりながら、自分のなかで情報を整理し、当日と翌日を過ごしたことを、なんとなく覚えているそうです。でも、当時の記憶はずっと曖昧なままで、それだけ混乱していたのだ、とも。
そのようにして、内陸部にいる親戚の方たちの安否は確認できたのだけれども、沿岸部にいる人たちの安否がまったく確認できない状態でした。
そんななか、テレビで繰り返される津波の映像は、希望よりも絶望を抱かせたのだそうです。
数日後、盛岡でもテレビを見ることができるようになったとき、繰り返される津波の映像を見ていたお母さんが、泣きながら、こんなもの見ていられないと言ったのだとか。あれらの映像は、被災者にとっては絶望を抱かせるものでしかなく、そこへの配慮のなさに、怒りすら感じたのだそうです。
道路が寸断されているという情報が流れ、国道も封鎖され、内陸から沿岸部へ家を確認しに行けない状態がしばらく続きました。
あとでわかったことだけれども、道路が通じるという情報が流れると人が殺到するので、実際は通行できる道でも、行政判断で通行不能という情報を流していたと耳にしたそうです。
批判するわけではないけれども、ここにいて、少ない情報を頼りに生活しているのに、その情報がウソである、信用できない情報を流していたとわかって、なにを信じていいのかわからなくなったと、東さんは言います。
3日後くらいに、内陸から沿岸に行く道が繋がっていると聞いたとき、東さんのご家族が、荷物を持って、食糧を持って、親戚何人かで安否確認に行かれました。
大船渡市に行きました。大船渡市は、坂が少ない場所です。そういう場所では、津波が来て、波が引くと同時に、すべてのものを根こそぎ持っていってしまった。
陸前高田市にも行きました。陸前高田市は坂が多く、津波が来て波が引くと同時に、モノをすべてそこに置いていったのだそうです。
なにもない大船渡市と、ガレキが残っている陸前高田市の両方をまわって、本当にここに人がいるんだろうか、と、ご家族は思ったそうです。
ご家族が避難所に行ってみると、親戚は誰もいませんでした。もうダメなのかなと思、家に行ってみたら、皆、家にいらっしゃったのでした。
ラッキーなことに、隣の家も車も流されてなにもなくなっていたのに、東さんの親戚の家は、20cmほど段差があったために、土壁が壊れた程度で済んだ。そこに近所の人も集まって、集団で生活していたとのことです。たった20cmの段差が、生死を分けたのでした。
無事を知らせたくても車の燃料はない。電話も使えない。テレビでは避難所に衛星電話があると言っていたけれども、それを使えるのは家がなくなった人に限定されたために、東さんの親戚の方たちは、東さんのご家族に無事を知らせる手段がまったくなかったのだそうです。そういう状態でした。
東さんの大叔母さんの安否連絡が一番遅かったのだそうです。無事のメールが来たのは、東さんがピエロハーバーで勤務しているときでした。
すぐに事務所に行って、助かりました!って大声で言って、号泣していたのを覚えているそうです。
スタッフはみんな家族のような人たちなので、泣きながら喜んでくれ、ここにいてよかったと、東さんは心底思われた、と。近くに誰か一緒になって心配してくれる人がいてよかった、と。
不謹慎だけれども、前置きしたうえで、こんなにもとてつもない被害だったのに、自分の目の届く親戚は誰一人、亡くなることもなく行方知れずになることもなく…、すごく恵まれていると、東さんは言いました。
でも、友人のなかには、いまだに行方不明の友だちがいるし、家ごと流されてしまった光景を目の当たりにした小学校6年生の少年は、未だに海が怖いと言い、夏は海に行かず内陸に遊びに行ったのだそうです。
京都に暮らす東さんは、なにをされていたか。
本当になにもできなかった。
店に義援金箱を置かせてもらい、震災前の東北の美しい風景の写真をたくさん送ってもらって、それを展示されていました。
被災地の外にいると、できることはなにもなくて、おカネや物資を送ることくらいしかできない。
でも、被災した家族に聞くと、皆さんがそういう気持ちでいてくれることが嬉しい、と。
妹さんが夏休みを利用して沿岸部にボランティアに行かれたのだそうです。
ガレキはなくなりつつあるけれども、雑草が生えてきてしまって、まず雑草を抜いてからヘドロを除去していかないとなにもできない状態なのが、現状だそうです。
正直、劇的には状況はなんも変わっていないようです。
村長がなくなったりしている場所もあるし、行政組織は損なわれていて、やはり頼れなかったのだそうです。一方で、組織を離れた人の助けや思いやりが一番ありがたかったのだとか。今もそう。
だから、このようなイベントをしてもらえるのは、とても嬉しいと、おっしゃっていただきました。
東さんのお母さんに、このプロジェクトの話をすると、とても喜んでくれたのだそうです。